思考の贅肉カット(オッカムの剃刀)

オッカムの剃刀(かみそり)」という思考の規則があります。

オッカムの剃刀
あることがらを説明するときは、必要以上に多くの存在や前提を持ち込むべきではない。

これはもともとアリストテレスが唱えた思考規則だそうです。イングランドのオッカム村出身の神学者オッカムのウィリアム)がこの指針を多用したことから名付けられました。

たとえば、物体の運動について2つの説明があるとします。

<説明1>
外から力がかからない物体は等速直線運動する。

<説明2>
外から力がかからない物体は神によって等速でまっすぐに動かされる。

説明1と2を比べると、「等速」「直線」は同じですが、2は「神によって」が余分に加わっています。物体の動きについて、1の説明で十分な場合は、2の余分な部分「神によって」をカットしてしまおうということです。

ここで注意しておきたいことがあります。
オッカムの剃刀」に従えば、「説明1」の方が「説明2」より望ましい説明です。だからといって、2の「神によって」が間違いだと証明されたわけではありません。
そんな証明は不可能です。将来、宇宙のすべてのメカニズムが解明されたとしても、「そのすべての動きは神(幽霊、妖精…)によるものである」と言い張ることだってできます。だけど、説明に余分な要素をもちこむことは、いたずらに混乱を深めるだけだ、やめるべきだ、という指針が「オッカムの剃刀」なのです。

同じものごとを説明するならシンプルな方が望ましいという考え方は、科学においてもよく使われています。
天動説から地動説への「コペルニクス的転回」にしても、実際に宇宙に飛び出して観察したわけではありませんね。地球やほかの惑星が太陽の周りを回っていると考えた方が、天体の動きをよりシンプルに説明できるという観点が、そこにはありました。

もっと日常的な例ではどうでしょうか。
たとえば、Aさん、Bさん、Cさんの3人が東京で企画を立ち上げ、成功して1億円儲けたとします(←うらやましい!)。
ところが、ずっと大阪にいたDさんが後になって、「君たち3人のプロジェクトは私が大阪から念力を送って成功に導いたのだ。だから自分にも報酬が与えられるべきである」と主張したとします。

もちろん、こんな主張が受け入れられるはずはありません。
Dさんの念力の影響が存在しなかったという証明は不可能ですが、「Dさんの念力」は説明からカットされるべきでしょう。

上のビジネスの例は、ずいぶん荒唐無稽に見えますよね。でも、こんな例ならどうでしょう。

Eさんが宝くじを買った。当選発表の日まで毎日お祈りを続けたところ、なんと1億円が当たった。

なぜEさんが宝くじに当選したか。これはごくシンプルに確率の問題として説明することが可能です。しかしEさん自身は「毎日のお祈り」を当選の原因に加えたくなるのではないでしょうか。

余計なものを付け加えたくなる心理は、身近なところでも意外と多くみられるのです。