99.9%のムスリムが平和を愛していてもテロは起こる、という構造
昨日は、南麻布のフランス大使館で行われた追悼式典を見学した。あらためて、痛ましい事件だと思う。
テロ実行犯が糾弾されるべきなのは当然として、フェイスブックなどで目についた意見がいくつかある。
- テロの犠牲はパリだけではない。なのにフランスだけが注目されている。
- フランス側もシリアへの軍事介入を強めており、テロを誘発してる。
- テロ実行犯は断じてイスラム教徒ではない。(主にムスリム側の意見として)
それぞれにもっともな理由がある。しかしわたしは別のことが以前から気になっている。それは、「99.9%のムスリムが平和を愛しているとしても、テロが起こる構造になっている」と思われることである。
◎立論の観点から見たイスラム教
立論の観点から考察すると、イスラム教の特徴としてつぎのことがいえるように思われる。
- 「クルアーン(コーラン)の言葉はすべて真である」ことが前提。
- クルアーンには異教徒への暴力を肯定する言葉が含まれている(九章五節、四十七章四節)。
- イスラム教には、カトリックにおけるローマ教皇庁のような、聖典の解釈を定める絶対的なシステムが存在しない。
上記の1〜3から何がいえるか。たとえ99.9%のムスリムが平和と協調を望んでいたとしても、暴力的な行動が正当化される余地は残されたままである。
フェイスブックで、ムスリムの友人がクルアーンの一節を紹介してくれた。「他人を殺す者は、人類すべてを殺すのと同等であり、他人を生かす者は人類すべてを生かすのと同等である」。
これは平和的な言葉にみえるが、資料にあたってみるとその文の全体ではないことがわかる。実際には、「殺人を犯したとか地上で悪いことをしたとかという理由もないのに他人を殺す者は、人類すべてを殺すのと同等であり、他人を生かす者は人類すべてを生かすのと同等である」となる(中公クラシックス『コーラン1』(5-32)。この文もまた、さまざまな解釈が可能に思える。
◎99.9%が平和指向でもテロは起きる
現代社会はこの宗教における「立論のスキ」を増幅させる。フランス社会の中で、たとえ99.9%のムスリムが平和と共存を望んでいたとしても、残りの0.1%が敵対的な解釈を採用するだけで、むごたらしいテロが成立する。もちろんこれはフランスだけの問題ではない。
くれぐれも誤解しないでいただきたいが、わたし自身は、99.9%の善良なムスリムの人たちといい関係を築くべきだと考えている。しかし一方で、「テロリストはイスラム教徒でない」という主張だけでは、本質的な問題の解決にならないだろうとも思う。よりよい解決のためにはまず問題の構造を正確に見極める必要がある、というのがここでの趣旨だ。
この記事はあくまでも現時点での考察にすぎない。より的確な考察があれば、いつでもアップデートしていくつもりである。
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