ゼロから問いかける技術
中田英寿やイチローの長期にわたる取材でも知られるノンフィクション作家・小松成美さんがインタビューの方法について面白いことを書いている。
彼女はインタビューの仕事が決まったら、その人についての過去の記事収集はもちろんのこと、その人の芝居や試合、コンサートなどにも時間を惜しまず足を運ぶ。「今この世界であなたのことを一番知っているのは私です」、そう言えるようになりたいと思って準備するのだ。
ところが、実際に取材する相手を目前にしたら蓄積したデータを消去し、こう心の中でつぶやくのだという……「今この世界であなたのことを一番知りたいのは私です」と。(『対話力 私はなぜそう問いかけたのか』小松成美著/ちくま文庫)
つまり、徹底的に下調べをしたうえで、インタビュー本番ではあえてゼロの状態から問いかけるというのだ。
◎歴史上の有名人も「ゼロから問いかける」
「あえてゼロから問いかける」という方法には長い歴史があると思う。二千四百年前にソクラテスは「わたしはなにも知らない」というキャッチフレーズをかかげて、並みいる論者を打ち負かした。武道にたとえれば、素っ裸で次々と道場破りをするようなものだ。彼はアテネの街で超有名人になったが、ついには訴えられて死刑になった。
今から四百年前にデカルトは「あえてぜんぶ疑ってみる」という思考実験をおこなった。あらゆる先入観をとりはらって頭の中を更地にしてから、知識の体系を組み立て直すという方法である。この思考実験はラディカルすぎて死刑になるおそれがあったので、彼は著書を匿名で出版せざるをえなかった。地動説を支持したジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、ガリレオ・ガリレイも裁判で自説の撤回を強いられた時代のことだ。