ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(1)

ぼくというものはまったく特別のもので、言ってみれば、それに対してすべてが存在している原点のようなもの、もっと正確にいえば、その上ですべてがくりひろげられる舞台のようなもの、というふうに感じていた。(『<子ども>のための哲学』永井均著/講談社現代新書 p32)

哲学者・永井均さんが取り組む「独在性」とは次のような問題だ。

<独在性の問題>
たくさんの人間のなかでまさにこの「ぼく」だけが、森羅万象をひらく原点のようなあり方をしている。一方、ぼくと他人の性質に本質的な違いはない。いったい何がこのぼくを特別なぼくたらしめているのだろうか?

この「独在性」問題について最初の問題意識を共有しながら、永井さんのアプローチの見落としを指摘し、別の解決策を提案することが今回のレポートの主旨である。『<子ども>のための哲学』(永井均著/講談社現代新書)を主なテキストとして用いた。皆さまのご批判を仰ぎたい。

【シーン1】 ぼくがいない世界

まずは問題の確認だ。上のイラストをみてほしい。A・B・C・Dの4人がいる。このうちBが「ぼく」だとする。何の変哲もない光景である。では、もう1枚イラストを見てみよう。

A・B・C・Dの4人がいる。こんどは、そのなかの誰も「ぼく」でないとする。

…いかがだろうか。2つの絵はまったく同じである(実際、同じ絵を2回載せただけだ)。しかし、そこには決定的な違いがある。上のBは「ぼく」であり、下のBは「ぼく」ではない。これは驚くべきことではないだろうか。

よーく考えてみてほしい。2人の人物について、身体的な特徴から心理的な特徴まであらゆる性質を比較しても、まったく違いは見つからないのである(そういう設定として考えてほしい)。なのに一方は「ぼく」であり、もう一方は「ぼく」ではない。だとすると、「ぼく」であることの唯一無二の特別さはいったい何によってもたらされるのだろうか?

念のため確認しておくと、ここでいう「ぼく」とは単なる一人称代名詞の「ぼく」のことではない。一人称の「ぼく」なら、A・B・C・Dそれぞれが自分のことを「ぼく」と呼ぶだろう。
そうではなく、今この瞬間リアルに生きている、森羅万象をひらく原点であるような「ぼく」について話をしているのである(この記事を読むあなたは、あなた自身のリアルな問題として考えてほしい)。この意味のぼくを一人称代名詞の「ぼく」と区別するために <ぼく>と表記することにしよう。

  • 「ぼく」:その人自身を指す一人称代名詞。誰にでもあてはまる。
  • <ぼく>:今この瞬間、森羅万象を開く原点のようなあり方をしている特別な存在

永井さんは『<子ども>のための哲学』において <ぼく>だけにある付加的な成分を探求し、それが決して発見できないという確認を経て、<ぼく>の存在を<奇跡>だとみなした。この記事では永井さんとは異なるアプローチを試みてみよう。

ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(2)

永井均さんにメールしてみた