ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(2)
問題にとりくむアプローチは大きく2つある。「付加的」に考えるか、それとも「関係」から考えるかだ。まずは例え話でイメージをつかんでみよう。
【シーン2】 ひとみママの疑問
ひとみママは不思議に思っていました。
「うちの子だけが なぜこんなに愛おしいの?」世の中にはカワイイ子どもがいっぱいいる。
なのにうちの子どもだけが とてつもなく愛おしい。
抱きしめずにはいられなくなる。
その理由を考えてみた。
「うちの子だけに特別な成分があるのでは?」でもうちの子も他の子も同じ人間。
うちの子にある成分は他の子にもあるはず。
だからこれは子どもに備わった成分の問題じゃない。
「これは奇跡なのよ!」でも この奇跡は決して他のママに伝えることができない。
だってそれを伝えようとしたとたん
「うちの子にもあてはまるわよ」
と言われてしまうから…
いかがだろうか。ひとみママが「奇跡」を導くプロセスを確認してみよう。
<ひとみママの立論>
(1)うちの子だけが特別愛おしい
↓
(2)うちの子だけの特別な成分があるはずだ
↓
(3)うちの子だけの特別な成分はありえない
↓
(4)これは奇跡なのよ!
この立論は(3)→(4)のステップに飛躍がある。(3)が正しいとすれば、その時点で(2)を破棄して(1)に戻るべきところなのだ。なぜそうすべきかについては後で再確認するとして、こんどは関係性の観点から解答を探ってみよう。答えは実にシンプルである。
<特別さの説明>
ママxは自分の子どもc(x) だけを特別愛おしく感じる
こう考えれば、ひとみママはもちろん他のママについても、自分の子どもを愛おしく思うことがスッキリと説明できる。もちろん現実には自分の子どもを愛することができない母親もいるが、それは別の話である。今回の考察は「特別さ」が関係性から説明できることの例だと考えてほしい。
では次に、ひとみママの夫であるひとしパパの疑問を取り上げてみよう。
【ひとしパパの疑問】
ひとしパパは不思議に思っていました。
「なぜボクだけが他の誰ともぜんぜん似ていないんだろう?」世の中にはたくさんの人間がいる。
その中でボクだけがまったく特別なあり方をしている。
その理由を子どものころからずっと考え続けている。
「ボクだけに特別な成分があるのでは?」だけどボクも他人も同じ人間。
ボクにある成分は他人にもあるはず。
だからこれはボクに備わった成分の問題じゃない。
「ボクは奇跡なのだ!」でも この奇跡は決して他人に伝えることができない。
なぜなら伝えようとしたとたん
「それは自分にもあてはまるよ」
と言われてしまうから…
ひとみママとひとしパパの疑問がよく似ていることがお分かりだろうか。念のため、ひとしパパが「奇跡」を導くプロセスを確認してみよう。
<ひとしパパの立論>
(1)ボクだけが特別なあり方をしている
↓
(2)ボクだけに特別な成分があるはずだ
↓
(3)ボクだけの特別な成分はありえない
↓
(4)ボクは奇跡なのだ!
この立論も(3)→(4)のステップに飛躍がある。(3)が正しいとすれば、(2)を破棄して(1)に戻るべきところだ。ここは大切な論点なので、ロジカルな観点からさらに考察してみよう。
<ひとしパパの立論>
【前提1】ボクは特別である。
【前提2】ボクが特別ならば、ボクだけの特別な成分がある。
【前提3】ボクだけの特別な成分はない。
↓
【結論】ボクは奇跡だ!
この立論の前提は次のように形式化できる。
【前提1】P
【前提2】P→Q
【前提3】¬Q
この3つの前提がすべて真となることはありえない。だからもし前提1と3を認めるならば、前提2を破棄しなければならない。
ところが ひとしパパは互いに矛盾する3つの前提を認めたうえで「ボクは奇跡だ」という結論を引き出している。心情的には理解できても、立論としてこれは成り立たない。なぜなら、この論法を認めるとどんなデタラメな主張もできてしまうからである。
では(2)を破棄して、関係性の観点から解答をさぐるとどうなるだろうか。実にシンプルな答えが得られるのである。
<特別さの説明>
人間xにとってx自身は特別である。
こう考えると、次の2点がスッキリと説明できる。
- なぜボクにとってボク自身が特別なのか
- なぜ他人にそれを伝えたとき「それは自分にも当てはまる」と言われるのか
以上を踏まえて、本来の問題に立ち戻ってみよう。
煩雑になるので詳細はひかえるが、『<子ども>のために哲学』において永井さんが<奇跡>を導くプロセスは「ひとしパパ」とほぼ同じなのである。(嘘だと思う方は永井さんの立論をノートに書き出して整理してみてください)
付加的な成分に注目し<奇跡>を導きだす永井さんの立論は成り立たない。 <ぼく>の特別性については「人間xにとってx自身は特別」という常識的な解答のほうが筋のとおった説明だといえる。
しかし、これでは「一人称代名詞の『ぼく』」に逆戻りではないだろうか。そもそも問題すら理解できていないのではないだろうか。
…いや、方向性はこれでいいのである。一人称代名詞の「ぼく」をきちんと掘り下げていけば、つまり関係性の観点から考察を深めれば、「すべての原点となるような」「森羅万象をひらくような」「端的な存在である」ぼくに説明を与えることも可能なのだ。