「意味」からはなれて

ぼくたちは「意味」の世界で暮らしている。

たとえば、音楽。
君が代」のメロディーを耳にして厳粛な気持ちが湧いてくる人もいれば、嫌悪感が押さえられなくなる人もいる。それぞれがメロディーに歌詞の意味や歴史的背景を付着させながら反応するわけだ。
中年男がプリキュア(女の子アニメ)の主題歌のメロディーを口ずさんでいたら、ちょっと気持ち悪い。でもそれは、聴く側がメロディー以外のさまざまな意味を読み込んでいるからだ。
「軍艦マーチ」がいくら音楽的に優れていても、「軍国主義」という意味を読み込んだとたん公の場で演奏したり歌ったりすることが躊躇されることになるだろう。

ぼくたちは「意味」が充満した世界で暮らしている。
このことを裏返しに見てみると、現実世界への対処法が浮かんでくる。
たとえば音楽なら、歌詞や歌い手や社会的背景などの意味を消去して、リズムやメロディーやコードなどの音楽的関心からだけで受容する方法がある。すると、「君が代」もプリキュアの主題歌も「軍艦マーチ」も、余計な意味をはぎ取った音の連なりとして、横一線に並べることができる。実際に、音楽の専門家は多かれ少なかれ、そういう分析を行っているはずだ。

もちろん、音楽だけではない。
ある女性は美人で、別の女性はブスだと思われているとしてみよう。ここでぼくたちは、そんな意味づけを抜きにして、純粋に骨格や質感への興味だけから両者をスケッチすることも可能だ。そういう絵画的なプロセスを経れば、一面的な価値観にとらわれない表現が可能になる。美人を描いた絵よりもブスを描いた絵の方が魅力的になる場合もよくある。

ぼくたちは時々、意味にとらわれすぎて行動が一面的になってしまうことがある。そんなとき、あえて意味抜きで観察し、価値を別の仕方で再構成する技術をもっておくと便利だ。