主人公のいないドラえもん
不謹慎な話になるかもしれないが。
東日本大震災の死者は、1万5848人(2月10日現在。その他に行方不明者が3305人となっている)。マスコミ報道では「未曾有の大災害」という表現が多用され、この1年、膨大な時間が震災関連の報道に費やされた。
だがここで特徴的なのは、遺体の映像がまったくといっていいほど写されなかったことだ。国内のテレビや新聞では皆無だったのではないだろうか。
2万人近くの死者・行方不明者を出した大災害の報道に膨大な時間と労力を費やす一方で、遺体の映像はまったくといっていいほど流さない。
いいことか悪いことかという価値評価は置いておくとしても、それがぼくたちが当たり前に接しているメディアの大きな特徴だということはいえそうだ。
映画にたとえてみよう。2万人の死者・不明者を出した、戦争なり大災害なりを描くとする。だが2時間の映画のなかで死者の姿は一度もスクリーンに登場しない…。
もちろん、そういう演出は十分にありうる。しかし、ここで覚えておくといいのは、その映画監督はあえてそういう演出を選んだということだ。
死者を映すという選択と映さないという選択と。
そのなかで、あえて一人の姿も映さないという演出を選んだのである。順番に撮影していったら、映すのを忘れていた、というわけではない。
ぼくたちが日常的に接する情報は、しばしば「主人公不在の物語」である。それが一種の美徳である場合も、もちろん多い。
だけどときどき、その手際よさに気づいて、ハッとさせられるのである。