ゾンビ論法は循環論法?

ゾンビは誰?のつづき

物理的(科学的・電気的)反応としては人間とまったく同じだけれど、内面(意識体験・クオリア)をもたない人間がいたとしたら…
こんな風に考えていくことで、われわれ人間には肉体とは別の内面が存在するのだとする論証を「ゾンビ論法」といいます。興味ある方は、ウィキペディアかなにかで調べてみてください。

でもこの「ゾンビ論法」って、ダメな論法なんじゃないかと、ぼくは思っています。根本的には循環論法でしかないと思うのです。
「ゾンビ論法」の骨格をものすごく単純化すると、結局こういうことになります。

<ゾンビ論法の骨格>
【前提1】人間には「内面」が存在する。
【前提2】人間の「内面」を外側から見分けることはできない。
【結論】人間には外側から見分けられない「内面」が存在する。


2つの前提を受け入れれば、もちろん結論は正しくなります。だけど、この「前提1」がアヤしいぞ、と僕は思うのです。

人間に内面がない!…なんて信じられないかもしれません。
いまこの文章を読んでいる人が100人いるとしたら、そのうち99人は「内面」の存在を確信しているはずです。「だって、いま現に俺(私)はいろんなことを感じたり考えたりしているのだから」と。

ぼくが思うに、私たち人間がものを感じたり、考えたりするのは、われわれの脳がさまざまな情報処理を行っているからです。
いろいろ考えてみましたが、いまのところ、脳の働き以外の「内面」を想定しなければならない必要性はないと思っています。

ま、議論百出のややこしい問題ですから、これ以上は踏み込みませんが、論理愛好会ブログとしては、ひとつだけ確認しておきたいと思います。

私たちが信じている「内面」は空間的な比喩にすぎない。

「人間は内面をもつ」といっても、実際にわたしたちの身体のどこか、細胞のどこかに「内面」という空間があるわけじゃないですよね。
わたしたちは、感じたり考えたりするときに「内面」をもっているように思えますが、これは「内面」という空間的比喩を使用しているにすぎません。

極端にいえば「私」とは、脳がつくりだした一種の幻なのではないかと僕は考えているのです。

→クオリアメモ(1)