クオリアメモ議論(Populaさんへの回答2)

クオリアメモ議論(Populaさんへの回答1)では、Populaさんのコメントの内容をぼくなりに確認してみました(誤解があれば指摘してください)。そのうえで、ぼくの考えを述べたいと思います。
まず、Populaさんの立論の骨格は、ぼくの考えでは以下のようになっています。

【前提1】「私」にはクオリアが出現するが、他人にはクオリアが出現しない
【前提2】「私」と他人の物理的仕組みは(ほぼ)同じだ
【前提3】物理的な仕組みが同じならば、クオリアが出現するかどうかの結果も同じであるはずだ
【結論】クオリアの謎は解けない(※)

※【前提2】【前提3】から導かれる結果は、【前提1】と矛盾するから

3つの前提のうち、2と3については基本的に同意します。問題は【前提1】ですね。
ぼくの見解では、【前提1】には「よい点」と「やや甘い点」があるように思います。

まず「よい点」について。
私たちはふだん、当たり前のように「人間ならば誰にでもクオリアが現れる(あるいは、人間は心をもつ)」と思っています。これが常識です。
だけど、よくよく考えてみれば自分以外の他人にクオリアが出現することの証明は不可能です。これは大きな発見です。この発見によって、私たちは素朴な常識から一歩踏み出すことができます。

「やや甘い点」について。
コメントを読んだかぎりでは、「人間が何を認識できるか」という問題について、Populaさんは古い考え(19世紀的な認識論)にとどまっているように思えました。
ここでいう古い考えとは、「科学で様々なことが厳密に証明される」「世界にあるさまざまな存在について、人間は確実に知ることができる」というような考え方です。
このような素朴な認識観・科学観は、20世紀に却下済みだと、ぼくは考えています。

人間には世界を直接体験することはできない。直接体験するのは、自分自身の感覚だけだ。感覚以外に何物かが存在しているということは、どうすればわかるのだろうか?
答えは、いうまでもない。そんなことは決してわからないのだ。感覚以外の何物かが存在するというのは、もっともらしい仮説にすぎない。

(『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン 岩波現代文庫 P82 赤字強調は引用元では太字による強調)

たとえば、この引用は現代のある物理学者の言葉です。読めばわかるとおり、外界についての絶対確実な知識が得られるというような素朴な認識論を否定しています。
この著者たちは物理学者であり、科学の有用性を擁護する立場にあるわけですが、それは「絶対確実な認識が得られる」という意味ではなく、この世界を上手く説明する仮説を構築するという意味においてなのです。

本題に戻ります。

【前提1】「私」にはクオリアが出現するが、他人にはクオリアが出現しない

この「他人にはクオリアが出現しない」という断定は、「わかるーわからない」という古い認識論を前提にしているように思えました。
むしろ現実世界については、何であれ厳密には証明できないことが当然であり、そのうえで、私たちは少しでもましな仮説を立てる作業をつづけている、というのがぼくの見解です。

  • 他人にクオリアが出現していることを直接観察することはできない。

この点は、ぼくもPopulaさんも一致しています。
しかし、ここから「他人にはクオリアが出現しない」と断定することは早急でしょう。

個々の人間をh1, h2, h3, h4, ……, hnとして、それぞれにクオリアの発現 q1, q2, q3, q4, … ,qn があると仮定しても特に矛盾はありません。
もちろんこれは(他のすべての科学理論と同じく)仮説にすぎませんが、この仮説はそうでない仮説(「私」だけにクオリアが現れ、他人には現れない)と比較して、この世界の現実をシンプルに説明できると思います。

【前提1'】「私」には私の、他人には他人のクオリアが出現する。
【前提2】「私」と他人の物理的仕組みは(ほぼ)同じだ
【前提3】物理的な仕組みが同じならば、クオリアが出現するかどうかの結果も同じであるはずだ

Populaさんの立論(をぼくが再構成したまとめ)の【前提1】を【前提1'】に書き換えると、全体の整合性がとれます。あまり常識的すぎて新鮮味はありませんが(笑)

ちょっと長くなってしまいましたが、「わかるーわからない」の二分法ではなく、現代的な仮説形成の考え方を導入すれば、クオリアの謎について「解けるハズがない」という悲観的な結論を引き出す必要はないように思いました。
いかがでしょうか。

→クオリア観察法