ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(5)

ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(4)

ここまでを振り返ってみよう。

  • 【シーン1】ぼくがいない世界……問題の確認
  • 【シーン2】ひとみママの疑問……関係性を軸に解決の方向を提示
  • 【シーン3】箱ニンゲンの世界……「端的な」特別性の説明
  • 【シーン4】ヤドカリと台風……<ぼく>が現れる仕組みの仮説

「付加的」なアプローチではなく「関係的」なアプローチの方が「ぼくの特別さ」をうまく説明できるということだ。これを踏まえて最後に「分裂」「消去」「交換」の練習問題を解いてみよう。

【シーン5】分裂

ぼくがなぜかAとBの2人に分裂した。
身体的・心理的性質はまったく同じだ。
なぜ「このぼく」はAであってBではないのだろう?

この問題は「ホンモノが宿る」という「ヤドカリ型」のモデルでは上手く説明できない。「ホンモノ」などどこにも存在しないからだ。
一方、「台風モデル」(下図)を用いれば無理のない説明が可能になる。分裂した2人はそれぞれに「ぼく」なのだ。そして、今まさにこの問題について考えている「このぼく」が人物Aであるのは、人物Aにおける「意識ー<中心>」が「このぼく」を発生させているからにほかならない。

1つの受精卵が分かれて別個体になった一卵性双生児のどちらが「ホンモノ」かを問うのは無意味である。「分裂」のケースは一卵性双生児のイメージで考えると理解しやすい。

【シーン6】消去(シーン1と同じ)

上のイラストのBは<ぼく>である。
下のイラストのBは<ぼく>ではない。
いったい何が違うのだろうか?

これは【シーン1】「ぼくがいない世界」として提示した問題だ(ようやくここに戻ってきた)。内容的には【シーン5】の「分裂」と同じである。上のBは今まさにこの問題について思考している「このぼく」、下のBは「双子」のもう1人だと考えればいい。身体的・心理的特徴はそっくりでも他人とみなしてさしつかえない。

【シーン7】交換(自我同一性に関する「ウイリアムズ・永井・榑林説」)

ナガイ氏とクレバヤシ氏に対し
狂気の科学者が以下のような人体実験を行った。

第1段階:ナガイ氏の記憶を消去
第2段階:ナガイ氏に他人の記憶を移植することを宣言
第3段階:ナガイ氏にクレバヤシ氏の記憶を移植
第4段階:クレバヤシ氏の記憶を消去
第5段階:クレバヤシ氏にナガイ氏の記憶を移植
第6段階:ナガイ氏とクレバヤシ氏の身体を交換

ナガイ氏とクレバヤシ氏の 身体(記憶)を
N(N)および K(K)とすると…

第1段階:N( )
第2段階:N(X)
第3段階:N(K)− K(K)
第4段階:N(K)− K( )
第5段階:N(K)− K(N)
第6段階:K(K)− N(N)

すると、次の結論が導きだせる。

  • 現在のナガイ氏にとってN(N)ではなくK(K)(身体も心もクレバヤシ氏である人間)が未来の自分となる可能性がある。

この結論はどこまで信じていいだろうか?

まず「台風モデル」で考えてみよう。「自分」はその瞬間ごとに「意識—<中心>」の関係で規定されるだけだ。すると「未来において どちらが本当の自分か」という問い自体が無意味になる。
もちろん現実の場面では、身体や記憶の同一性が同一人物であることの基準となることが多い。しかし「どの基準なら社会生活がうまくいくか」とはいえても「どの基準が絶対的に正しい」と決定できる根拠はない。これが一応の解答である。

では、このシーンの「結論」=「未来の自分がN(N)ではなくK(K)になる」ことについてはどう評価すればいいのだろう。

この立論の欠陥は自己同一性の基準が曖昧なことだ。ナガイ氏の場合、第5段階までは「身体の連続性」が同一性の基準となっている。ところが第6段階へのステップでは一転して「記憶の連続性」が基準となる。ためしに最終ステップも同じ基準(身体の連続性)を用いるとどうなるか。

第1段階:N( )
第2段階:N(X)
第3段階:N(K)− K(K)
第4段階:N(K)− K( )
第5段階:N(K)− K(N)
第6段階:N(N)− K(K)

ナガイ氏もクレバヤシ氏も最初の自分に戻ることになる。簡単にいえば、ナガイ氏とクレバヤシ氏の入れ替わりは次のような仕組みになっている。

第0段階:(N)− (K)
第1段階:)− )……身体の連続性が基準
第2段階:K()− N()……記憶の連続性が基準

私があなたに手品を披露するとしよう。
物体が「未来において同一性を保ったまま入れ替わる」手品である。

赤と青の積み木があり、それぞれは土台と半球からできている。

第1段階:上の半球部分を交換する
第2段階:下の土台部分を交換する

すると、摩訶不思議…
赤い積み木が青い積み木に
青い物体が赤い積み木になった!

いかがだろうか。この手品がたいして不思議でないとしたら、その理由は同一性の基準が恣意的だからだ。なぜ縦の列が同一なモノとして扱われるのか。なぜ第1段階と第2段階で異なる基準を用いたのか…ここではなにひとつ説明されていないのだ。

(終わり)

数ヶ月後、永井さんにメールしてみました。

永井均さんにメールしてみた