イスラムとは何か?(東京ジャーミィを見学して)

日本最大のモスク東京ジャーミィを訪れた。ぼくにとっては二度目、今回は新進気鋭の東京都議・音喜多(おときた)駿さん企画のモスク見学&ハラール体験ツアーへの参加である。100人以上が参加したツアーの詳細は、音喜多さんのブログ(よくも…よくも…っ!」と、ムスリム青年に感謝された日。モスクツアー参加者100人超!)をご覧ください。

モスク広報の下山さんは、大学生のころアフリカでたくさんムスリムと知り合ったそうだ。イスラムに興味をもってあれこれ調べるうちに、自分もイスラムに改宗したのだという。下山さんが繰り返し力説するのは「イスラムは平和の宗教である」こと。日本人が過激派に拉致された時には、みんなで無事を祈ったのだそうだ。

ムスリムはこの奥のくぼんだスペースに向かって礼拝する。写真は撮っていないが、この日も7〜8人が並んで祈りを捧げていた。さらに(下山さんの解説によれば)めったに聞けないコーランの朗唱も聞くことができた。信者はきっと大きなものに包み込まれるような感覚になるのだろうと想像してみた。

さてここで話は飛ぶ。イスラムとはいったい何なのだろう?
極論だが、それはこのモスクを上空から見ればわかる!

googleマップで上空から見ると、モスクだけが井ノ頭通りに対して斜めになっているのがわかるだろうか。これはモスクが(礼拝スペースも)正確にメッカの方角を向いているからである。

ムスリムの友人たちと話したり何冊かの本を読んでみたりしたかぎりでの、ぼくの理解でいえば、イスラムとは要するにこういうことだ。

イスラムコーランに書かれていることは全て正しいと信じる思考

もちろんこれがすべてではない。しかしイスラム世界のすべてはここから展開する。(詳しくは『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(井筒俊彦著・岩波文庫)などを参照してください)

ここでもういちど話は飛ぶが、この日の写真をフェイスブックページに載せたところ、大勢のムスリムの友人が「いいね!」やコメントをくれた。その一方で、オーストラリア人の女性がイスラム批判のコメントを書き込んで、議論にもなった。彼女はざっくり言うと、こんな意見だ。

モスクに行くなんて笑っちゃうわ。イスラム教は女性にスカーフを強制するし、豚肉は食べられないし、最近は悪質なトラブルばかり起こす。イスラム教なんて7世紀から進歩がない、一夫多妻制の野蛮な宗教よ! 美しい建築を見るなら、私はイタリアやフランスに行く!

もちろんそれに対してムスリムの友人たちは反論する。議論の詳細はさておき(暇な人はぼくのfacebookページを見てください)、この機会にぼくなりに考えを整理しておきたい。

イスラムの本質は「『コーランに書かれていることはすべて正しい』と信じること」である。世界中に16億人いるイスラム教徒のうち(ちなみに仏教徒は3.6億人)、ほとんどはコーランを平和的・協調的に解釈する。一方、少数の過激派はコーランをラディカルかつ攻撃的に解釈する。すると次のような箇所が問題になってくる。

コーラン第9章5節
神聖月が過ぎたならば、多神教徒どもを見つけしだい、殺せ。これを捕らえよ。これを抑留せよ。いたるところの通り道で待ち伏せよ。しかし、もし彼らが悔い改めて、礼拝を守り、喜捨を行うならば、放免してやれ。神は寛容にして慈悲深いお方である。(中公クラシックスコーランⅠ』p232)

ごく簡略化していえば、過激派の論理は次のようになる。

前提1:コーランはすべて正しい。
前提2:「多神教徒を殺せ」とコーランに書かれている。
結論:「多神教徒を殺せ」は正しい。

これはなかなか厄介な問題だ。16億人のイスラム教徒全体を過激派扱いするのは論外。とはいえ「彼らはイスラム教徒ではない」という主張もまた、問題を単純化しすぎだろう。

イスラム教は平和な宗教か。それとも危険な宗教か?」という二者択一はぼくにとって無意味である。それよりも「多くのムスリムコーランを平和的に解釈しようとしている」ということに注目している。

そして、大多数の平和的な人々と協調的な関係をつくるところに、問題解決の大いなるヒントがあると考えている。