日本軍とプロパガンダとマレーシアの気持ち(1)

◎戦時中のプロパガンダ

マレーシア人のNくんと戦時中の日本軍について話しているとき「プロパガンダ」という言葉が登場して興味を引かれました。「プロパガンダ」とは「宣伝。特に主義・思想の宣伝」のこと。当時の子供向け冊子をネットで見つけたので少し紹介します。


大東亜共同宣言。日本の子供が中華民国、タイ、フィリピンなど東アジアの子供たちと並んでいます。


「ご覧なさい。アメリカやイギリスやオランダは、大東亜の私たちを軍隊の力で押さえつけ、こんなに悪いことをしていたのです。」


「私たちの大東亜を私たちの手に返そうと、日本は立ち上がりました。そして強い日本軍は敵を大東亜から追い払いました。」


「(前略)フォリピン国とビルマ国は独立しました。タイ国は国が広くなりました。ジャワやマライの人々も、大切な役目について働いています。インドもイギリスを追い払おうとしています。これから大東亜の国々は、それぞれ立派な国になり、互いに仲良くするのです。」


「文化高揚……アメリカやイギリスやオランダは、私たちがどんなに勉強しても、働いても、幸せにしてくれませんでした。しかしこれからは働けば働くほど、勉強すればするほど、幸せになります。よく勉強しましょう。よく働きましょう。そして大東亜の文化をいよいよ盛んにしましょう。また大東亜の人々が互いに話し合うことのできるように、日本語を学びましょう。」

出典:Japanese propaganda booklet from World War II
http://2bangkok.com/wwiipropaganda.html

◎日本軍の快進撃と現地の被害

では、当時の実態はどうだったのでしょう。時代背景を確認しておくとwikipediaの「マレー作戦」の項目にはつぎのような記述がります。

1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。

その「快進撃」のもとでは、過酷な措置も行われていたようです。リンク先のホームページ(マレーシア人が日本語で書いた?)には、日本占領期のマレー半島について、つぎのような記述もあります。

「しかしながら、占拠者は中国人を在留敵国人と見なし、大変残酷に彼らを扱いました:いわゆる、シンガポール華僑虐殺事件sook ching(苦痛による浄化)の間に、マラヤとシンガポールの80,000人以上の中国人が殺されました。中国企業は没収され、中国の学校は閉じられたか全焼されました。」

マレーシアの歴史
http://perakipoh.blogspot.jp/2013/06/blog-post_5.html

また次の資料を見ると、マレー半島にも多くの「慰安所」が存在したこともわかります。

慰安所マップ
http\://fightforjustice.info/?page_id=583
【被害者証言】ロザリン・ソウ(マレーシア)
http\://fightforjustice.info/?page_id=559
【被害者証言】Pさん(マレーシア)
http\://fightforjustice.info/?page_id=562

東アジアが一丸となって発展する「大東亜共栄圏」の構想、マレー半島に置ける日本軍の「快進撃」…その一方で、日本軍によって殺されたり弾圧されたりした人々もいたということですね。

では、マレーシアの人々は当時の日本に対してどんな感情を持っているのでしょうか? わたしはNくんにもうすこし訊いてみたいと思いました。


日本軍とプロパガンダとマレーシアの気持ち(2)
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/20160105/p2