鍵となる質問…「なぜ、話が通じないのか?」(2)


さてタバコに関しては、『禁煙ファシズムと戦う』(ベスト新書)などで受動喫煙健康被害を否定する批評家K氏を「インチキ学者」と挑発的に批判していたら、最後に名誉毀損(?)で訴訟を起こされた。仮に原告K氏の訴えが全面的に認められれば300万円支払わなければならない。

ぼくは専門家の助言を受けながら、訴状に対して1つ1つぜんぶ反論した。その過程で分かったのは、K氏の訴状はまったく素人が書いた杜撰な代物だということだ。結果、ぼくのK氏批判は、多少行儀が悪いものの、真実性、公共性などが認められて、訴えは棄却、K氏の全面敗訴になった。やれやれ。

だからといって、K氏が自分の間違いを認めたというわけではない。K氏にとっては「ヘンな裁判官に当たった。不運だった」という認識かもしれない。余談だが、K氏はその後2度、芥川賞候補になった。

一方、ぼくの興味はタバコというよりも、「どうすれば議論が成立するか」ということに移っていた(これは「なぜ話が通じないのか」という疑問と同じことだ)。最初は戦時中から戦後にかけて流行した「一般意味論」という学問に共感し、それを広めたいと考えた。ところが、一般意味論の紹介をあれこれ考えるうちに、これは学問としては成立しないものだということが分かってきた。そしてだんだん、本物の学問である論理学に興味をもつようになった。

論理学の独習で、ぼくの世界観は大きく変わった。自分たちが大事にしている価値観も、「今の時代の日本」など歴史や地域に限定されたものにすぎない、と確信するようになった。歴史的にみれば、19世紀後半から20世紀前半にかけては、記号論理学の成立によって、哲学・思想の分野が大きな変貌を遂げた。ぼくは初歩的なレベルではあるが、人類の知の大きな転換を追体験した実感がある。

ところが、論理学の知識を使っても自分と意見が対立する人たちと議論を成立させるのは困難だった。ひとくちに「論理的」と言っても、いろんなレベルがある。あまりに論理的であろうとすると話が進まない。逆に話をどんどん進めようとすると、論理のスキマが多くなっていく。自分や相手の思い入れが強い分野で議論しようとすれば、いくら自分が論理的であろうとしても、それだけで相手を納得させることは不可能だった。(そこには依然として「なぜ、話が通じないのか?」という疑問があったはずだ)