ビートルズがいだいた問いとは?

新宿でドキュメンタリー映画ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK』鑑賞。「エイト・デイズ・ア・ウィーク」とは、「1週間に8日、ぼくは君を愛してる」という内容の歌だが、ここでは「1週間に8日ぐらい忙しい」ライブツアーを思い起こさせるタイトルとして用いられている。

ぼくはビートルズ解散後に生まれた世代が、中高生の頃はビートルズばかり聞いていて、春休み夏休みなどに開催されるフィルム上映会(「ビートルズ復活祭」)に参加するために、地元の姫路市から大阪まで足をはこんだものだ。

当時のぼくにとってビートルズのライブは「歴史的な大騒ぎ」だった。今回改めてドキュメンタリーを観て、PAシステムもない、自分たちの音もほとんど聞こえない中であの息の合った演奏ができたのは奇跡的なことだと驚愕せざるをえなかった。

ビートルズが世界を席巻した1960年代、アメリカのコンサート会場では、白人と黒人の席を別々にする隔離システムが残っていた。イギリスからやってきた彼らがそれを「ばからしい」と一蹴し、黒人客の隔離が行われる会場ではコンサートを行わないことを契約に盛り込んだ、という事実にも興味を惹かれた。

「あのビートルズはどんな問いを抱き、それに答えようとしたのだろう?」...そんなことを考えながら、ぼくは映画を観ていた。

ビートルズといえども、最初の最初から大成功を治めたわけではない。故郷リバプール、そしてドイツ・ハンブルグでのライブハウス修行時代。安ホテルの1室に4人で泊まりながら、こんな問いを発し続けていた・・・「俺たちはトップになれるだろうか? トップの中のトップになれるだろうか?」

世界を席巻し、歴史上かつてない喧噪の中でツアーを繰り返し、メディアに追われ続けた後、彼らはどんな問いを発したのか・・・「音楽の壁を破るにはどうすればいいか?」。そして、自分たちの曲の中に次々と実験的な要素を取り入れていった。

もっと遡れば、十代のころポール・マッカートニーは病気で母を亡くし、ジョン・レノンは痛ましい交通事故で母を亡くしている。「母を亡くした悲しみは、どうすれば紛らすことができるのか?」・・・そんな潜在的な問いとともに、十代の少年たちは曲作りを始めたのかもしれない。

今回の映画では、1966年のビートルズ来日時にカメラマンを務めた浅井慎平氏のインタビューも聞くことができる。彼はこんな内容のことを語っていた。「ポピュラーミュージックには、どうしても観客に媚びる側面がある。だが彼らはそうは見えなかった。どうすれば自分たちが楽しいか、お互いに響き合うことができるかだけを考えているように見えた」と。ここにも「どうすれば自分たちが楽しくなれるか?」「どうすればお互いに響き合うことができるか?」という問いがある。

ここまで書いた「問い」は、ぼくが映画を観ながら想像したものだ。でもまったく的外れというわけではないと思う。「○○をやりたい。実現したい」という欲求があるとき、それは「どうしたら○○できるのか?」という問いに書き換えることができる。

たとえばビートルズにしても最初期のころなら、「新しいコード(和音)をいくつ覚えられるか?」とか、「隣町のライバルバンドに勝つにはどうすればいいか?」などの問いをもっていたのかもしれない。それから数年のうちに、彼らの問いは劇的な変化を遂げていき、その答えも変わっていったことだろう。

「卓越した芸術活動には、それを実現させる原動力となった問いがあるはずだ」というのがぼくの仮説である。優れたアートの中に問いを発見し、答えを発見する作業は楽しい。

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