ディランの沈黙の意味は

ボブ・ディランノーベル文学賞受賞を受入れるというニュース。

それが不可解だという友達がいたので、SNSでこんな風に答えてみました。「ディランの沈黙」に関する私なりの推測です。

いつも周りは大騒ぎ、その一方で本人は我が道を行くのがディランですからね。

1960年代前半、まだ二十歳そこそこの青年が反戦フォーク、社会運動の象徴として若者たちの熱狂的な支持を受けました。1963年、キング牧師の歴史的な演説のときも、フォークギター1本で歌っています。

ところが数年後には、いきなりエレキギターで激しいロックを始めて、コンサート会場は大ブーイング、彼にむかって「(裏切り者)ユダ!」と叫ぶ若者も。でもそうやって、周りの評判とは距離を置きながら、自分が本当にやりたい歌をさがし続けるのがディランのスタイルです。

ウディ・ガスリーなどアメリカのフォーク音楽、ディラン・トマス(←名前もらった)、ジャック・ケルアックアレン・ギンズバーグなど先輩詩人たちからどれだけ多くの影響を受けているか、本人はものすごく自覚しています。
また、ビートルズをはじめ同世代や年下の世界中の音楽家に影響を与え、慕われていることも。
そんな中で、ディランはいつも余計なことは言わないんですね。余計なことは一切いわずに、それを歌や詩の中で表現することに徹する。

ディランの受賞はディラン本人だけのものじゃない。ノーベル賞を受賞しなかった先輩詩人たちや、彼の後に続くミュージシャンたちの代表という側面もある...そんなことも意識しているかもしれません。

さて、ノーベル賞の騒ぎの中でどんな言葉を発すればいいのか…。

僕の想像ですけど、受賞の大騒ぎから少し距離を置きたかったんじゃないでしょうか。少し離れて眺めながら、自分の中でどんな言葉がわいてくるのか、探していた(待っていた)のかもしれません。

そして、自分の言葉が見つかったから、はじめて発言した…。ディランを知っているファンなら、わりとそういう見方に賛成するんじゃないかという気がしますけどね。

ボブ・ディランとアレン・ギンズバーグがジャック・ケルアックのお墓を前に、詩を朗読するレア映像

ディランにとっては、ノーベル文学賞すら無条件で受入れるものではなく、ひとつの問いかけだった。その答えを彼なりにさがす時間が必要だった。

…ぼくはそんな風に考えてしまうのですが、さてどうなのでしょう。

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