ダ・ヴィンチにはなれないけれど

絵が上手に描ける人が羨ましい。「お前だって描いてるじゃん」とツッコまれそうだが、羨ましいものは、やっぱり羨ましい。
ぼくが羨ましいのは、美大や専門学校で絵を集中的に訓練して基礎的な技術がある人だ。そういう人はサラサラと落書きしても、現れる線が気持ちいい。
まあ、彼らが一生懸命デッサンに励んでいる間、ぼくは他のことをしていたわけだから文句はいえない。自分でできることをやるしかない。下手でも続けるうちに自分なりの方法が見つかるだろう。

「仕組み」がわかると、身近なモノでも見え方が違ってくる。

たとえば人の顔。年齢によって頭蓋(ずがい)のカタチは大きく変化する。目の下と耳を結んだ線を基準にすると、赤ちゃんと大人では上下の比率が変化する。赤ちゃんなら3:1、成人でだいたい1:1になる。老人になるとまた下の部分が縮んでいく。
下手な人が描くと、大人をそのまま縮小したような子供になる。若者の顔にシワを加えただけの老人になる。でもそれだけでは、子供らしさ、老人らしさは表現できない。「らしさ」を構成する要素はさまざまだが、顔の上下の比率を意識するだけでもかなり違う。

類人猿とヒトも、頭蓋骨の形は大きく違う。

チンパンジーとヒトを比べると、ヒトは後頭部が丸く大きい。その一方、あごはずっと華奢であることがわかる。
直立二足歩行をきっかけに脳が発達し、また、火の使用など料理を覚えることで顎が小さくなっていったのだ。
人間の鼻は他の類人猿に比べてなぜ飛び出しているのか。これは鼻が高く進化したわけではない。鼻以外の部分が後退した結果、結果として鼻が飛び出すように残ったのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチは人体に関する資料の乏しい時代に、何十体もの解剖に立ち会い、スケッチを繰り返し、人体の仕組みについての知識を身につけた。彼ほどものごとの仕組みに興味を抱き続けた人物は、古今東西、稀だろう。

ダ・ヴィンチが死んだのは1519年。ということは、あと7年で、彼の死後500年になる。
ダ・ヴィンチの時代に知られていなかった膨大な知識を、ぼくたちは、家にいながら手に入れることができる。だけど、あれやこれやの情報を右から左に受け流すことに精一杯で、基本的な仕組みを再確認するセンサーが麻痺しているのではないだろうか。

凡人がいくらあがいてもダ・ヴィンチにはなれない。
とはいえ、自分なりにものの仕組みを発見したり、そのための方法を周りの人と共有してみたいと切に思うのである。

(参考文献)
『人物デッサンの基本』(鯉登潤著/ナツメ社)
『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』(溝口優司著/ソフトバンク新書)