議論の尺度を合わせよう

昨日の記事「独我論者の手紙」ですが、時間がないなかバタバタと書いたので、最後の方が少しわかりにくかったかもしれません。もう少し補足しておきます。テーマは「議論の尺度を合わせよう」です。

ジャンボジェットに乗ってコンビニへ!

「杓子は耳かきにならず」なんてことわざもあるように、ものごとには場面ごとにふさわしい尺度があります。
たとえば、「自転車に乗って近所のコンビニに行く」「ジェット機に乗ってヨーロッパに行く」のは、スケールの観点からすると乗り物の適切な利用だといえます。でもそれが逆に「ジェット機に乗って近所のコンビニに行く」「自転車に乗ってヨーロッパに行く」だと、ちぐはぐな乗り物利用になってしまいます。

実は日常の議論もこれに似ていて、尺度を間違えると話がかみ合わなります。

たとえば、テレビの情報について考えてみましょう。
テレビから流れる情報が絶対に正しいという保証はありません。だからといってNHKのニュースを見るたびに、「この玉突き事故は実際に起ったのだろうか?」とか「野田首相は本当に国会でこの発言をしたのだろうか? 映像が捏造されているのではないだろうか?」とか「この天気予報は国民を騙そうとしてわざとデタラメを言っているかもしれない」などと疑っているとキリがありません。
日常生活を送るうえでは、情報をある程度信用する場面と、疑う場面を適切に使い分けることが必要になります。

別の例を挙げてみます。たとえば「人の心」について。
哲学的議論を突き詰めていった場合、他人が心を持ってることを証明することはできません。自分以外の人がみんな、心を持つように動いているだけの何ものかにすぎない可能性がゼロだとは断定できないのです。この議論を「哲学的ゾンビ」と言ったりします。
だからといって、小学校の面談で児童のメンタルの問題を話し合うときに、「そもそも他人に心があるとなぜ言えるのか」というような「哲学的ゾンビ」の話を持ち出しても議論はかみ合わないでしょう。小学校の面談なら、まずは子供が機械やゾンビではなく心を持った人間であるという前提で話を進めるのが、適切な尺度だといえます。

こんな例もあります。明日太陽が昇るかどうか。
哲学的議論をとことん突き詰めていくと、明日必ず太陽が昇るとは断定できないことがわかります。昨日も一昨日も百年前も千年前も太陽が昇ったからといって、明日も必ず昇るとは言い切れないのです。18世紀にデイヴィッド・ヒュームという哲学者がこのような問題提起をしています。科学的な正しさとは何かを根本的なレベルで考えるうえでは、このような観点を無視するわけにはいきません。
だからといって日常のレベルで、たとえば次回の会議のスケジュールを決めるときに、「なぜ明日も太陽が昇るといえるのか。昇らないかもしれないではないか」というような話から始めたりしていると、仕事仲間から相手にしてもらえなくなってしまいます。

思考や議論において、適切な尺度を選択することは、意外と見落とされがちな問題だとぼくは思っています。もちろん、通常はみんな無意識のうちに場面に応じた尺度を選択しているのでしょうが。

そうそう。昨日の記事にもどります。

ものすごく厳密な哲学的議論をするならば、わたしたちは決して他人の実在を証明することはできません。その意味では「自分以外の他人は幻かもしれない」という独我論を論破することは不可能です。これを仮に「究極の哲学的尺度」としましょう。
一方でわたしたちは他人の存在を当然のこととして日常生活を送っています。こちらは「日常的尺度」としましょう。

ぼくが強調したいのは、こういった尺度の適切な使い分けが議論においては大切だということです。文脈に応じた尺度の使い分けを無視して、「独我論は正しいか間違っているか」という議論をはじめるのは混乱のもとです。

独我論は正しいか?」
「そうだね。突き詰めていくと否定はできないよね」
「じゃ、お前は誰と話しているんだ」
「いや、私は学問的な話をしているだけで…」
「それはおかしい。日常生活に役立たない学問は学問である資格はない」

などなど、議論がどんどん袋小路に迷い込んでしまいます。

  • ぼくたちは、他者の存在を仮定しながら暮らしている。

他人の存在は、究極的には仮定でしかありません。だけどこの仮定に対する接し方は決してひとつではなく、文脈に応じて違ってきます。
「他人の存在」という仮定を俎上に乗せて解体するのか(究極の哲学的尺度)、まずは共通の前提としたうえで日常的な問題を話しあうのか(日常的尺度)、使い分けができることも、議論に必要なセンスだと思うのです。

he goes to neighborhood convenience store by plane: there are adequate scales in usual life, so in arguments