クオリアメモ(1)
ゾンビ論法は循環論法?のつづき
「主観的体験をともなう質感」を「クオリア」(qualia)といいます。
特別扱いを認めないことで発展してきた科学が、いまだに特別扱いせざるをえないのが、私たちの意識、主観的体験である。
(中略)
ここで、クオリア(qualia)とは、もともとは「質」を表すラテン語で、1990年代の半ばごろから、私たちが心の中で感じるさまざまな質感を表す言葉として定着してきた。太陽を見上げた時のまぶしい感じ。チョコレートが舌の上で溶けて広がっていく時のなめらかな甘さ、チョークを握りしめて黒板に文字を書いた時の感触。これらの感覚は、これまで科学が対象としてきた質量や、電荷、運動量といった客観的な物質の性質のように、数量化したり、方程式で記述したりすることがむずかしい。
(中略)
そして、そのようなクオリアのすべてを感じ取っている<私>という存在がいる。眠っている間の意識がない状態から、クオリアに満ちた意識的体験への変化はあまりにも劇的である。
あなたがいま「赤い花」を見ているとして、その花の「赤さ」は、ぼくが同じ花を見るときに感じる「赤さ」と同じでしょうか? もしかすると、ある人が見ている「赤」は別の人が見ている「青」とお同じかもしれません。ある人が見ている世界は、別の人が見ている世界と比べてフィルムのネガポジ反転のようになっているかもしれません。
それに、そもそも、もし世界が物質だけでできているとしたら、どうしてそこに「この赤さ」とか「この肌触り」とか「この何ともいえないいい匂い」とかが生まれるのでしょう?
人間の脳をいくら調べ尽くしても、『この生々しい主観的な体験』がいったいどこから、どんな仕組みでやってきたのかわからない。科学ではお手上げだ。そんな風に考える学者もいます。
クオリアについて考えることは「<私>とは何か」を考えることにつながるかもしれませんね。