クオリアメモ(2)

クオリアメモ(1)のつづき

クオリアについて最近考えたことを、ちょっとメモしておきます。

この世界が物質でできているとしたら、なぜそこにさまざまな色、肌触りや温かさ、匂いが出現するのでしょう?
将来、人間と同じように動いたり、考えたり、泣いたり、笑ったりするロボットができたとして、そのロボットはクオリアを感じたり、内面的な意識をもったりするのでしょうか。あるいは、それを確かめるすべはあるのでしょうか?

デカルトニュートンの時代に世界のさまざまな法則が数式で記述されるようになってから、「じゃ、人間のココロは何なんだ?」という問題が浮上してきました。人間が物理的法則に従う機械だとしたら、「私が感じている ”この生々しい感覚”は何なのだ?」という説明がつかない、感覚やココロの一番肝心な部分は科学では扱えないのではないかと考える人も多くいました。

でも、ぼくはこんな風に考えています。
たとえば、赤いバラの花を見ているとします。脳の機能以外に「ココロ」とか<私>の存在を想定する二元論だと、「脳の中にスクリーンがあり、そのスクリーンをさらに<私>が見ている」ということになります。(もちろんいろんな学説があるので、これはもっとも単純化した例にすぎませんが)
しかしもちろん、脳の中をしらみつぶしに探ったところで、「スクリーン」も<私>も見つかりません。

この考え方はわたしたちの実感と近いところもありますが、「スクリーン」や<私>という余計な存在者を想定している点で、おそらく間違った考えだと思います。

ぼくがいま採用している方向性は、「脳は一種の計算機である」というものです。そして「クオリア≒質」を「脳という計算機による演算結果」とみなします。

脳をコンピュータ(計算機)に喩えること自体は、現代人にとってはごくありふれた考えです。「でも ”脳=コンピュータ”だけでは根本的にわからないことがある。それがクオリアであり<私>なのだ」という議論が世界のあちこちで交わされているわけです。
なるほど。でもやっぱり「脳=コンピュータ」と考える方が正しそうだ、というのがぼくの意見です。