永井均さんにメールしてみた

今年1月にブログ記事「ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案」をアップした。その後、哲学者の三浦俊彦さん(和洋女子大教授)に目を通してもらい、「大体、問題ないのではないかと思いました。正しいと思います。」との感想をいただいた。(三浦俊彦のページ電子掲示板 2013年1月18日)

数ヶ月たち、僕自身の関心もすっかり他に移っていたのだが、最近たまたま、永井均さんの連絡先がわかった。ものは試しとメールを送ってみたところ、すぐにご返事もいただくことができた。何かの役に立つかもしれないので、永井さんとのメール5通をここで紹介しておこうと思う。(永井さんからは転載許可をいただきました。ありがとうございました)

【1】ワイネフ→永井さん(2013.4.28)

はじめまして。昨年末2、3ヶ月ほど、mixiの某コミュで『<子ども>のための哲学』についてあれこれ議論しました。その結果を簡単なレポートにまとめましたので、よろしければご覧ください。

ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案(1)〜(5)
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/20130107/p1

私が考える、主な問題点を2点挙げておきます。
(1)<ぼく>の特別さを付加的に考えるアプローチはうまくいかないのではないか
(2)<ぼく>=<奇跡>を導く立論は成り立たないのではないか

もちろん、私の理解が不十分な点も多々あると思います。とはいえ実際問題として、たとえば<ぼく>=<奇跡>の立論について、永井さんの愛読者の方たちも論拠を示すことができない状態でした。この点をさらに丁寧に考察することは、まっさらな気持ちで問題を考え直すにあたって決して無駄にはならないはずです。

「そんなこととは無関係に、ぼくの考えてきた問題そのものに強くすなおな関心をもち、ぼくの考えてきた道筋に何か誤りを発見した方がおられるなら、ぜひ教えてほしい」(『<子ども>のための哲学』P214)というお言葉に甘えて、思うところをメールさせていただきました。少しでもお役に立てば幸いです。

なお、『転校生とブラック・ジャック』p200「哲学的議論のための要諦」には全面的に賛成です。

【2】永井さん→ワイネフ(2013.4.28)

興味深く拝見しました。
第一に言えることは、ご指摘の問題は、私にとっては問題の出発点であった、ということです。
ワイネフさんが提示されたような説明が成り立つ(成り立つようにさせる)ことこそが言語という世界表象方式の特質なのだ、というのが私の見解です。
そこから出発して「語りえぬ」ということの意味を考えていくのが私の哲学でした。(「でした」というのは最近ではまた別の課題が生じているので。)
第二に言えることは、『〈子ども〉のための哲学』は〈子ども〉のための入門書であり、しかもあまりのも古い、ということです。
「第一」として述べたようなところを考えていくには、やはり、ここ数年に書いたものを手掛かりに考えていただかなければなりません。そうでないと、私自身の現在の哲学的課題と接触するところを見出せないので。
「とって」性と「端的」性の闘争と前者への絶えざる組み込みという論点は昔からありましたが、現在では、レアリテートとアクトゥアリテートとの対立とその累進構造として定式化され、可能世界論や時間論(および神学的議論)に同型の構造があるということが論点になっています。
言語的に整合的な説明を求めて、絶えずそこに組み込まれれていくアクトゥアリテート(現実性)の存在を見逃してしまえば、問題は即座に消えてしまいます。
『私・今・そして神』以降、最近の『哲学の密かな闘い』所収の諸論考にいたる議論を対象としていただけるとたいへんありがたいです。

【3】ワイネフ→永井さん(2013.5.4)

ご返事ありがとうございます。今後のヒントをいただいて大感謝です。せっかくなので、2ヶ月間勉強会(ネット上ではありますが)に参加してくれた人たちにも教えてあげたい気持ちになりました。

ところがあれこれ考えるうちに「私の質問と永井さんの回答の間にすれ違いがあるのではないか」という疑問がわいてきました。そこだけもう少し確認させてください。

まず私は、以下の点に賛同します。
・「言語」に限界があること
・「語りえぬ」ものが存在すること
つまりここは争点ではありません。

では何が問題か。『<子ども>のための哲学』における永井さんの「説明の筋道」について取り上げているのだとお考えください。
なおこの「説明」は、ごく日常的な意味での「説明」です。たとえば今回、私のメールへの返信で永井さんは「第一に…。第二に…」と回答してくださいました。同様にご著書の中でも何らかの(言語を用いた)説明が行われているわけですね。

極端な例を挙げます。ある人が本にこう書いたとします。
「語りえぬものが存在する。なぜなら語りえぬものが存在するからだ」

このとき、次の2点が指摘できます。
(1)ここでは言語の限界がテーマとなっている。
(2)この説明は同語反復的であり、不十分である。

もちろん、ご著書における永井さんの説明はここまで単純ではありません。とはいえ、<ぼく>=<奇跡>であることの説明について、以下のことが指摘できると思ったのです。

(2')<奇跡>の説明の骨格は (a)同語反復的 であるか、(b)矛盾を許容しているかであり、いずれにしても不十分である。

(2'の補足)
(a) 同語反復的:「<ぼく>は<奇跡>である。なぜなら<ぼく>には同じ種類のものが存在しないからだ」という形になっている。
(b) 矛盾の許容:「<ぼく>は<奇跡>である。なぜなら、<ぼく>を成り立たせる特別な性質がなければならないのに、そんなものは絶対にありえないからである」という形になっている。

言語によるコミュニケーション(説明)には限界があります。とはいえ現実的には全か無かではなく、「執筆→読書」という行為をとおして私たちは考えを示し、受けとります。
そのことを前提としたときに、ご著書における<奇跡>の立論には説得力のある筋道を見いだせなかったというのが、私の感想です。

<奇跡>を導く説明が (a) 型もしくは (b)型になっているという私の見解については、どう思われますか? その他、私との勉強会に参加してくれた<子ども>たち、また今後ご著書を手に取る読者の方々に向けて、永井さんのご意見を教えていただけると嬉しいです。

【4】永井さん→ワイネフ(2013.5.4)

ワイネフさんの質問と私の回答の間にすれ違いがあるというのはおそらく事実であろうと思います。前回も書いたように『<子ども>のための哲学』は非常に古い本で、雑誌に連載していたのはすでに20年近く前になるので、正直のところその記述内容にはほとんど記憶がありません。概して読者の方々はすべての著作を並列的に見られるので、最近の本も大昔の本も同じ永井の著作として平等に扱われることが多いのですが、著者は現在の視点から垂直的にしか見ることができず、また特別な場合を除いて自分の過去の著作を読み返すこともないので、同じ主題に関してその後に形成された分厚い雲を通して遥か彼方の出来事を見るようにしか見えないのです。したがって、その本の内容についてのご質問にお答えすることはできません。お答えできるのは現在の私の考え、あるいは現在からみて過去の私の考えだったと思われる考え、だけです。
 そのことを前提にしていえば、<奇跡>を導く説明が (a) 型もしくは (b)型になっているかどうかは記憶にないのでわかりませんが、(a)(b)そのものの内容は正しいと思います。 もちろん同語反復的にも矛盾的にも解釈できますが、それこそ同語反復的に言うなら、そう解釈しないで、<奇跡>的に解釈すれば<奇跡>的になりますから。そのように解釈して問題の存在を受け止めてもらうための本であったろうと思います。
 繰り返して言いますが、関連する細部の問題はその後の諸著作で掘り下げてありますのでそれらの議論を綿密に検討していただくほかはありません。

【5】ワイネフ→永井さん(2013.5.4)

早速のご返信ありがとうございます。

>お答えできるのは現在の私の考え、あるいは現在からみて過去の私の考えだったと思われる考え、だけです。

これはおそらく永井さんの偽らざるご心境なのだろうと思います。
私ですら、たかだか数ヶ月前『<子ども>のための哲学』について議論していたときと今と、自分にとっての問題のリアリティが大きく変化していることを感じざるをえませんでした。ましてや20年近く前のご著書ですから。

いずれにせよ、永井さんのお考えを聞かせていただけたことは大きな収穫でした。ありがとうございました。

(以下略。内容は転載願い)

いかがだろうか。感想は人それぞれだろうが、正面からの議論にならなかったことだけは確かである。こんな寓話はどうだろう。

ある村で「宝さがし」が流行していた。
一部の村民が、仙人が記したという古文書を手に
<奇跡ノ石>を捜している。

別の村人が詳細に検討した結果
<奇跡の石>は存在しえないという結論に達した。
しかしそのことを熱心に伝えたところで
<奇跡ノ石>を信じる人々が納得することはなかった。

月日は流れ、村民・倭稲歩(わいねふ)が山中を旅しているとき
地図を書き残したと伝えられる七我異(ながい)仙人に出くわした。
倭稲歩は仙人に問うた。
「わたくしどもが調べ上げた結果
 <奇跡ノ石>は存在しないという結論に達しました。
 あの地図は果たして真実なのでしょうか。 お答えください』

すると仙人は答えた。
「ふぉっふぉっふぉ。
 昔のことすぎて、覚えとらんのう〜。
 宝を捜したければ、新しい地図を見るがよい」

<奇跡>を導く立論はまだ誰からも示されていないと思う。『<子ども>のための哲学』において<ぼく>=<奇跡>を導く筋道をきちんと説明できる人がいれば、このコメント欄で教えてください。ここはオープンな場です。記事で検証します。