李箱(イサン=異常)という作家がいた

「異常」は韓国語で「イサン 이상」と読む。その「異常」と同じ発音の名前をもつ李箱(イサン)という作家がいた。韓国人で李箱を知らないのは日本人が太宰治の「走れメロス」を知らないようなものだ。

李箱
1910年、朝鮮・京城(ソウル)生まれ
1937年、東京にて病死

彼の作品は賛否両論を巻き起こした。たとえば鳥瞰図ならぬ『烏瞰図』という連載には次のような詩がある。『朝鮮中央日報』の連載は当初三十回の予定だったが、「精神異常者の戯言」などと毎日のように苦情の投書が寄せられ、十回で中止せざるを得なくなった。

十三人の子供が道路を疾走する。
(道は袋小路が適当である)。

第一の子供が怖いといっている。
第二の子供も怖いといっている。
第三の子供も怖いといっている。
第四の子供も怖いといっている。
第五の子供も怖いといっている。
第六の子供も怖いといっている。
第七の子供も怖いといっている。
第八の子供も怖いといっている。

第十一の子供が怖いといっている。
第十二の子供も怖いといっている。
第十三の子供も怖いといっている。
十三人の子供は怖い子供と怖がっている子供とそのようにだけ連れ立っている。
(別の事情はないのがむしろよい)。

その中のひとりの子供が怖い子供でもかまわない。
その中のふたりの子供が怖い子供でもかまわない。
その中のふたりの子供が怖がっている子供でもかまわない。
その中のひとりの子供が怖がっている子供でもかまわない。

(道は吹き抜けの路地でも適当である)。
十三人の子供が道路を疾走してなくともかまわない。

(日本語訳:崔真碩)

1936年10月、李箱は新天地を求めて東京へと向かう。そして大いに幻滅する。遺稿となった随筆「東京」にはこんな記述がある。

  • 私の思い描いていたマルノウチビルディングーー通称マルビルーーは、少なくともこの目の前にあるマルビルの四倍はある壮大なものであった。
  • 新宿には新宿らしい性格がある。薄氷を踏むかのような奢侈ーー私たちはフランスヤシキにて、前もって牛乳を混ぜ合わせて持ってきたコーヒーを一杯飲んだ。
  • 銀座は単なるひとつの虚栄読本である。
  • 昼の銀座は夜の銀座の骸骨であるから少なからず醜い。
  • 私は京橋のそばの地下共同便所で手早く排泄をしながら、東京に行ってきたとあんなにも自慢していた友人たちの名前を一度暗唱してみた。

『李箱 作品集成』(崔真碩編著/作品社)の解説によると、当時京城(ソウル)で暮らしていた人々は「近代的なもの=日本的なもの」への憧れと、日本による植民地支配という現実との二重化された状況にあった。
近代化への憧れが植民地化の内面的な受容へと直結するという葛藤ーーこの視点は面白い。少なくとも当時の状況について「植民地支配の弊害」か「近代化の恩恵」かと言い争う人たちよりは、説得力のある説明を与えてくれる。

東京にやって来て半年後、李箱は26歳の短い生涯を終えた。振り返ってみれば、この作家は日本による韓国併合の半月後に生まれ、日本が戦争へと突入する(日中戦争)3か月前に死んだわけだ。

僕は彼の生涯をテーマに3行の詩を書き、ついでに彼が幻滅した丸ビルの跡地(丸の内ビルディング)で写真を撮ってみた。でもこれは、SNSのグループで披露していいものかどうか不明だったので没にした。彼の作品は当時を覗き見る手掛かりになるように思う。


(2014年11月撮影・筆者)