続・アゲる表現サゲる表現(侮辱的な言葉)

GWも今日が最終日。皆さまいかがお過しでしょうか。
ぼくは数日前、サイクリングに行ってきました。多摩川沿いに往復65kmほど。いい運動になりました。写真は、福生市で食べたサラダたっぷりピザ。お店の主人が畑で育てた野菜を使用しているそうです。

さて、昨日の記事「アゲる表現・サゲる表現」に関連して、ある人から面白いエピソードを教えてもらいました。
ニュースキャスターの小宮悦子さんがかつてPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長にインタビューしたとき、「テロリストだったあなたがノーベル平和賞を受賞してどういうお気持ちですか?」と質問、たちまちアラファト議長が不機嫌な表情になったというのです。
正確にどういうインタビューだったのかはわかりませんが、ネットの書き込みなどからすると、そのとき小宮さん自身は「テロリスト」が侮辱的な言葉だという意識をまったく持たずに、屈託ない笑顔でインタビューを続けていたのだそうです。

似たような話は、世界中いたるところで見られます。たとえば「ニガー」(niggar)という英語は、黒人に対する侮蔑語です。僕の手元の辞書にも、この語はタブーであり使用すべきでないという注意書きがあります。
ところが、ある本にこんなエピソードが載っていました。1930年代の話です。

ある黒人青年がヒッチハイク旅行をした。
ある土地で親切な白人夫妻と知り合い、家に泊めてもらうことになった。しかし困ったことがひとつ。夫妻はとても親切なのだが、彼のことを何度も"little nigger"(クロンボくん)と呼ぶのである。
彼は面と向かって「ニガー」呼ばわりされることに我慢できない。夫妻の親切には感謝しながらも、とうとう勇気を振り絞って言った。

青年:「どうかその侮辱的な語で僕のことを呼ばないでください」

主人は不思議そうに聞き返す。

主人:「誰が君を侮辱しているんだい?」
青年:「あなたですよ」
主人:「私は何も変な呼び方はしてないが…」
青年:「ぼくをniggerと呼ぶことですよ」
主人:「ん…君はniggerではないのかい?」
青年:「…………」

おわかりでしょうか。この白人夫妻は「ニガー」が侮辱語だという意識を一切持たずに、黒人青年に対して使用していたのです。
これは1930年代の、住民のほとんどが白人で占められていた土地での話です。たぶんもう少し時代が下れば、この言葉が差別的であるという認識が、アメリカのどの地域でも常識となっていたことでしょう。

日本人を"Jap"と呼ぶのも、差別的な表現だとされます。ただし辞書によっては、差別意識なしに"Japanese"の略称として用いられる場合も多いというような記述もあります。
また、ぼくが以前、韓国人の学生に聞いた話では、「チョーセン」というと差別的に聞こえると言っていました。同じ言葉でも「チョースン」という発音なら大丈夫なのだそうです。(これも20年ぐらい前の話なので、いまどうなのかは知りませんが)

ぼくは、ふだんよく東京の街を自転車で走っています。自転車のことを「チャリンコ」「チャリ」と呼ぶ人がいますが、ちょっとバカにされているように感じます。もちろん言っている本人には、そんな気持ちはまったくないでしょうけどね。

前回「アゲる表現・サゲる表現」で書いた本題に戻ります。私たちが日常使用するコトバは、決していつも中立的に情報を伝えるわけではありません。よい印象を与えるコトバもあれば、軽蔑的・侮辱的に聞こえるコトバもあります。また、受け取り方も人によって大きく異なる可能性があります。
いわゆる差別語の問題にしても、「このコトバは差別語だから使ってはいけない」という画一的な対応ではなく、コトバが持つ多彩な影響力を送り手と受け手がどうコントロールするかという視点で考えた方が、柔軟なコミュニケーションを実現できると、ぼくは考えています。

あ、そうそう。最初の方に書いた小宮悦子さんのエピソードを教えてくれた方が、もうひとつ面白い「ネタ」をくれたので最後に紹介しておきます。

「寿司」について


  • 新鮮なネタと人肌のシャリ(アゲる表現)
  • 死んだ魚の切れ端と生ぬるい酸っぱいメシ(サゲる表現)

まさにコトバは生き物ですね。