私(フジモト)の妻が新垣結衣であることは可能か?(言表様相/事象様相) 分からないことは堂々と間違える方がいい

週末は、ラッセル読書会(ラッセルはイギリスの哲学者)でした。そのとき思ったことがあります。それは「発表のときは、たとえ準備不足で不安な部分があったとしても、曖昧にしてごまかさないほうがいい。むしろ堂々と間違える方がいい」ということです。

なぜか? 堂々と間違えて指摘してもらえば、その場で修正できて、結局は自分のためになるからです。

ラッセル読書会では、自分の担当部分のレジュメを直前にバタバタと準備していました。そのとき、ある2つの哲学的概念について、どっちがどっちか、自分でも分からなくなってしまいました。そのまま発表したところ、案の定、三浦俊彦先生(東大教授)から「藤本さん、それは全部、例が逆になっていますね」と指摘されました。

そのとき私は「ああ、しまった…やっぱり」という気持ちと同時に、「よかった。これではっきりした」という気持ちになりました。

そうです。「間違える」→「指摘を受ける」というプロセスを経ることで、自分の理解を次の段階に進めることができるのです。曖昧にしたままだと、これからずっと曖昧なままかもしれませんからね。

ちなみに、どんな哲学的概念だったかというと、「言表様相(げんぴょうようそう)modality de dicto」と「事象様相(じしょうようそう)modality de re」とといいます。

たとえば、こんな質問があるとします。

※「私(フジモト)の妻が新垣結衣であることは可能か?」

この質問は2つの意味に解釈することができます。

(1)「私(フジモト)の妻が新垣結衣である」をひとつの意味ある文と考えます。もちろん現実的にはまずありえませんが、論理的な可能性でいえば、いろんな偶然が重なって「私(フジモト)の妻が新垣結衣であること」という妄想的世界もないとはいえないでしょう。その意味で※の質問のこたえは「可能」になります。(言表様相)

(2)「私(フジモト)の妻」である特定の女性Mさんがいます。そのMさんが新垣結衣であることが可能かどうかといえば、2人は別人なので、答えは「不可能」になります。(事象様相)

要は、「ひとつの文のまとまり」に注目するか「特定の個体」に注目するか、の解釈のちがいですね。

※現在の東京都知事橋下徹である可能性はあったか?

(1)「現在の東京都知事橋下徹である」…もし彼が都知事選に出馬していれば、そんな可能性もあったかもしれません。こたえは Yes(言表様相)

(2)「現在の東京都知事」は小池百合子であり橋下徹とは別人なので、答えは No(事象様相)

この2つの概念については、私が自分の理解のために書いただけということもあるので、読み流していただいて結構です。でも、ひとつの文をお互いが別々の意味に解釈して混乱することって、ありません?

分からないことを曖昧にするよりも堂々と間違う方が、むしろ自分の理解を深めるきっかけにできる。また、同じ質問でも文の解釈によって答えが違ってくることがある。…よかったら、ちょっとした参考にしてみてください。

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