解釈の分かれる文にご用心!

議論がすれ違う原因に、コトバの曖昧性があります。これは単語のレベルでも(語義曖昧)、文のレベル(文意不明確)でもいえます。両者とも、紀元前4世紀にアリストテレスが指摘した13の誤謬に含まれています。

解釈が分かれる文について、作家の井上ひさしさんが面白い例を挙げていました。

「黒い目のきれいな女の子がいた」

この文は、少なくとも3通りの解釈ができます。
(1)「黒い目のきれいな」「女の子」がいた。
(2)「黒い」「目のきれいな女の子」がいた。
(3)「黒い目のきれいな女」の「子」がいた。

(1)の女の子は、きれいな黒い目をしています。
(2)は肌の色が黒い女の子です。
(3)は、ある女がいて、その女を母に持つ子供の話をしています。

「黒い目のきれいな女の子がいた」というわずか14文字の日本語でも、実にいろんな解釈が可能なんですね。

古代ギリシャ時代だと、こんなエピソードがあります。
リディアという国の王が、太陽神アポロンの神託(神のお告げ)を訊きにいった。そのお告げは次のようなコトバだった。

お前はハリュス河を渡って、大いなる国を滅ぼすであろう。

喜び勇んだリディア王は、ハリュス河の向こうにある大国ペルシャを滅ぼすべく、即座に大軍を送った。ところが、あろうことか、リディア軍はいとも簡単にペルシャに破れてしまった。
戦争に破れ火あぶりの刑に処せられることになったリディア王に対して、アポロン神殿の巫女はこう言った。「お前が滅ぼす『大いなる国』とは、お前自身の国、リディアのことだったのだ」と。

ついでに数学の例も見てみましょう。

【問題】

「どの数もある数より小さい」…この文は真か偽か?

これも2通りの解釈が可能です。
まず、「どんな数にもそれより大きい数が必ず存在する」。そう解釈すれば、問題の文は真になります。
そうではなく、「ある数aがあって、このaはどの数よりも大きい」と解釈すると、問題の文は偽になります。最大の数なんて存在しませんからね。

ちょっと頭を使ったところで、最後に、ぼくがむかし広告関係者の方に聞いた話を紹介します。

ある食品メーカーの広告用にこんなキャッチコピーを提案した。

お母さんの唐揚げが食べたい!

ところがスポンサーはこのコピーを見てカンカンに怒ったのだそうです。
なぜだかわかりますか。このキャッチコピーを書いた人の意図は、もちろん「お母さんが作ってくれる唐揚げが食べたい」です。でもスポンサーはまったく別の解釈をしました。「お母さんを唐揚げにして食べたいとは何事か!」と。そんな恐ろしいことを考える人はあまりいないと思いますけど。

これは単なる笑い話にすぎません。しかし現実の議論では、文の意味をお互いが別々の意味に解釈して堂々巡りになることが頻繁にあります。
たったひとつの文でも複数の解釈が可能なわけですから、多くのコトバ、多くの文をやりとりする場合、とくに相手と敵対的な関係にある場合はなおさらですね。

建設的な議論のためには、お互いが文の解釈をすり合わせていくことが、必須の条件になります。

→黒い目のきれいな女の子が18人いる!?